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仕事観に関する考察

数週間前、外国人の友人(西洋人)と会話をしていた際に、内容が仕事の話に及び、自分としては少々違和感を感じるような考え方と議論する機会があった。彼の話の趣旨は、大旨こういうことである。「仕事に時間を取られるということは、人生を無駄に過ごすということ。働くのであれば、極力自由に自分の時間を使えるということが大事なこと。」そして、「一流大学へいくということは、一流の奴隷を育てるということだ。」などなどである。

これは何も珍しい考え方でもない。日本でも、いつごろからだか分からないが、もう少なくともバブルの時代から「家庭をかえりみないお父さん」だったり、「仕事で疲れ果てたサラリーマン」といったように、「日本のサラリーマンは働き過ぎてロクな人生を歩んでいない」みたいなイメージを持たせるようなフレーズがまことしやかに飛んでいた。そして、「将来に希望を持てない若者」みたいなフレーズもよく耳にした。

そして最近、西洋で似たような考え方が広まりつつあるんじゃないのかと考えている。フェイスブックなどのSNSを見ていても、たまにそういった「仕事観」に関するミーム(風刺画みたいなもの)が出回り、Jay Shettyのような、真面目に仕事をすることを真っ向から否定する(正直金儲け以外に何がしたいのかよく分からないが)啓発系のセミナーを開催するような連中がいたり。。。そういった人々は、よく「社会は我々を洗脳して我々に奴隷的な生活を強いている。会社は檻で上司は看守でデスクは独房だ。そして、毎朝同じ時間に起きて同じ時間に寝るためだけに帰るあなたは囚人だ。そして、学校というのはそういう奴隷を自分が奴隷だと思わせないように洗脳するための機関である。」みたいなことを言う。こういったことに毒されて(洗脳されて?)会社で真面目に働くことを非常に不幸なことだと考える西洋人が増えているのだとしたら、同情せずにいられない。

私も、働き過ぎはよくないとは思っている。しかし、上記のような考え方には違和感を感じずにはいられない。長い間なにかをしていたら、それで奴隷なのか、という話だ。毎朝同じ時間に起きて仕事にいくのは、逆に見れば健康的な生活の一部であって、心身の健康を維持するためであれば、仕事があってもなくてもそうするべきであろうとの見方もある。仕事にやりがいを感じるのであれば、長時間働いても不幸ではないはずだ。上司がいなかったら自分は怠けてしまうかもしれないし、間違いを指摘してくれる人がいなくなり成長できないかもしれない。デスクがなかったら落ち着いて仕事できないかもしれない。働かなかったら、それこそロクな人生でないかもしれない。良い学校を出ていなかったらスキルが足りないかもしれない。あまり生産性を生み出せないかもしれない。競争もなくドリームもない、つまらない人生なのかもしれない。。。とは考えないのか。

無論、自分の意にそぐわないことをやらされて、しかも強制的で休ませてもらえない、ということが長く続いて、そしてそれが特になにか大きな目標に向かって行われているわけではないなら、とても辛い時間となることは否定しない。黒人俳優でコメディアンのクリスロックも、仕事について語るネタ「Job vs Career & Money」(https://www.youtube.com/watch?v=5gsFXZSxEr8 いつ消されるか分からないが。。。)にて、作業を行う仕事とキャリアアップができる仕事の違いについて説明して、しっかり勉強してキャリアを持てるようにしようという趣旨のコメディを披露している。彼は昔、高校を中退してロブスターを出すレストランで働き始めて、ずっとエビの皮むきを行う仕事をしたことがあるそうだが、「気が狂いそうになった」らしい。そして、これをずっとは続けられんと思い、もっと将来身になるような仕事をしたいと思って、キャリアアップできる仕事に憧れたものらしい。

大半の人間にとって、単純作業を長時間やらされることは辛いものだろう。アインシュタインは特許庁で働いていた時に、朝は書類を黙々と整理しながら物理のことを考え、昼には仕事を終えていて午後はずっと物理に関する本を読んでいたというが、このような人は珍しいのであろう。ここのポイントは、考えようによっては単純作業でさえ脳の使い方によってはそれほど辛い時間になるわけでもないかもしれない、ということだ。思えば、私も学生時代、なぜか知らないがとにかく歩くのが好きで、色々なことを妄想しながら何時間でも歩いたものだ。遠くまで行って、3時間以上かけて家まで歩いてかえったことも珍しくない。この時間を、無駄な時間というだろうか。もしこの歩行が強制的にやらされていると感じたら、エンジョイできていなかったのではないだろうか。

自分が思うに、大事なことは仕事に自分がどれだけの意味を見いだすことができるのか、ということではないかと思う。大手企業で勤めていても、個人経営でも、心の持ちようにより楽しくも辛くもあるのではと思う。もちろん、お金が稼げるとか、安定しているとかも重要な要素ではある。内容も時間も自由にできてしかもお金に困らないような仕事があれば、それは理想的かもしれない。仕事へ行くのが楽しみになるかもしれない。実際、うまく行っている時は仕事へ行くのが楽しくなるようなものかもしれない。学校へ行くのが楽しみな子どもがいるのと同じように。しかし、どんな仕事でも、多少の面倒くささはつきまとうのではないのかと感じる。そういった面倒な作業や、それにかかる時間などとどのように折り合いをつけるのかで、また仕事に対する幸福度も変わってくるのではと考える。

最初から、社会で真面目に働くことを奴隷になることだと思い込んでいたら、その人はおそらく仕事は長続きしない。あれよこれよと仕事にケチをつけて辞めてしまうであろう。もちろんブラック企業などに代表されるように、明らかに従業員の気勢を奪うような悪質な経営を行う会社もあるだろうし、新たなチャンスを求めて旅立つといった場合もあるだろう。そういった場合はすぐに辞めて次に進むべきだとも思うが、けっきょく人それぞれ、自分が生きている分の最低限の生産性を生み出さなければ世の中をわたっていくことはできないし、社会がそうでないと成り立っていかないし、教育もそういった方向へ向かって合わせなくてはいけないから、今のシステムは最高ではないかもしれないが、方向性は間違ってはいないのではと感じる。それを真っ向から否定してしまうのはどうしたものか、と。

日本やその他の先進諸国では職業選択の自由が認められているのだから、それほど状況は悪くはないのではと感じる。貧富の差から教育の差が生じているのは否めないが、努力をして能力を身につければそれなりに上へ行けるようなシステムにはなっている。むろん個々の能力も平等ではないから、限度はある。福沢諭吉も「学問のすすめ」の中で、「世の中には難しき仕事と易しき仕事あり。」とし、難しき仕事は責任の重い仕事、易しき仕事は責任の軽い仕事である、とし、責任の重い仕事につくか責任の軽い仕事につくかは、その人の能力で決定し、その違いと言えば、単にどれだけ頭脳を磨いてきたか、言い換えれば勉強してきたか、ということに尽きる、と語っている。要は、我々にはすでにある程度の自由は認められていて、機会は与えられていて(機会を与えてもらえないような国の子どもの話はここでは対象外にする)、その上で世の中を謳歌できるのであるから、会社で働いただけで奴隷扱いするのはどうかと、違和感を感じざるをえない。

このような考え方を、過度にポジティブだと感じる人もいるかもしれない。それこそ社会がそう思わせるように「洗脳」してきて、それを私が受け取っているともとらえる人がいるかもしれないが、人間誰しもが生まれた時から社会に「洗脳されている」とも言えるので(言い方をかえれば強く影響を受けている、ので)、自分が生きやすいように物事をとらえるべきなのでは、と考える。

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